六つの賢を以て..って言われても
穏やかな流れそのものである時には、『見る』という感覚そのものがすこし違う。
感じる、という言い方がより近いのだろうか。尤も、そんなことを思ってしまうのは、ここ数百年の間、化身として在り続けたからだろうか。
今はそう、水面越しに見える、とでも言うのか。
-人間というのは、どうにも感じ取るチカラが…。

人間を意図的にそう創ったことを棚に上げてはいけないな、と思いながらも、彼らを導き歩ませていくことが、何というのか思いの外『複雑で困難な行為』なものだな、と感じる。
『手間がかかる』と言い換えられるらしいが、一応通じているヴェーダ語にはそのままの概念がない。
-このあたりも正直面倒。
存在次元が違うのだから仕方のないことだが、感じ取るチカラもまるで違う。ゆえに複雑なことであっても水が流れるように伝わる、とはいかない。自らが敢えて課したものではあったが、これはそろそろ誰かに委ねたいところであった。
「然(さ)は言え、他の神々に託せるものでも無し。誰ぞ我の思うところを人間に伝え導ける者はおらぬものか─」
かすかな苛立ちともとれるものが、六賢弁才天の中に芽生えてきていた。
学芸愛ゆえの翻りであることは知れたこと。なればこそ、との思いと重なり、この踊り場に留まっていてよいものではない。
「―我に代わってこれを成し得るのも、また我か…」
学芸、就中、歌舞音曲の盛んなることは、心に気をもたらす。人にそれを伝え、導くことで、人もまた感じ取るチカラを増すことができよう。
「我と人との、ちょうど狭間ほどのものがおれば桟となるやもしれぬ」
思いはそのまま形作られる。

六賢弁才天の化身たる両の掌から湧き出した小さな水の渦は、やがてそれぞれ掌の上で六つの透き通った渦巻く玉となり、ひとつひとつが水の流れや渦を球体の中で見せている。
「六の賢以て、我の意を伝え導く、人の姿を持つものを」
掌(てのひら)の水の玉は即(すなわ)ち

であった。
「名などはさすがに要るやもしれぬ」
細かなことは成るに委ねるだけ。ただ人と相対するに名というものが要るのであろう、と思い至ったのは、六賢弁才天の伝え導かんとする希いが現れたもの。
「沙蕾(サラ)と与えよう。我のような尊びを併せ持ち、我のように水辺に在りて、我に代わりてよなげる(水の中などで、ふるい動かして選び分ける)を担う。されど、人に交じりて共に歩む姿でなくば、人を歩ませられぬであろう。ゆえに未だ蕾であり、やがて大きく花開く」
六賢弁才天の中では、これで全きを得ていた。